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nicochanさんの体験談 (インタビュー)

【乳頭腺管癌---手術、内視鏡下リンパ節郭清、抗がん剤治療、ホルモン治療】

体験談の最終更新日: 2014年12月



nicochanさんは、プロコーチとして女性支援の活動をされています。

「私はやっぱり、自分の足で歩いていこう」 と決めた人を支援したい!

そんな想いを軸に、ご自身の治療体験をシェアする活動にも

ご協力いただいています。 詳しくは、こちらのページから。


プロフィール
ニックネーム nicochan
治療時年齢 50歳
病名、病態、病状 乳頭腺管癌 T2N0M0 ステージ2a

左乳房、腫瘍径4.5cm、リンパ節転移1ヶ所
治療方法 手術、内視鏡下リンパ節郭清、抗がん剤治療(点滴)、ホルモン治療(投薬)
治療年、季節 手術 : 2011年12月

抗がん剤治療 : 2012年1月 〜 5月

ホルモン治療 : 2012年5月 〜 現在
治療期間、入院期間 手術入院 : 7日間 (入院2日目に7.5hの手術)

抗がん剤治療 : 3週間に1回の計5回 (初回のみ入院1泊、他4回は通院)

ホルモン治療 : 1日1錠の飲み薬
現在のあなた バリバリだぜぃ♪

3年前に手術、5ヶ月間の抗がん剤治療を経て、
現在も投薬治療中です。

おかげさまで、毎日元気に過ごしていますp(^^)q


病気の告知を受ける前のライフスタイル
治療前も今も、基本的に生活スタイルは変わってないです。

個人事業主としてコーチングの仕事をし、

家では2人の子を持つシングルマザー。

人と話すことは仕事であり趣味でもあるし、本を読んだり、

週1回、ズンバというラテンのエクササイズもやっていました。

日によって、忙しい日もあれば、オフの日もあったのだけれど、

睡眠時間が圧倒的に少なかったというのは自覚症状としてあったかな。

だいたい2時に寝て6時に起きる4時間睡眠がずっと続いていた感じ。

そんなに寝なくてももっちゃうほうだった。

ただ、病気が発覚した時に「睡眠時間が足りなかったからだ」って思ったかな。


病気のサイン
病気と認識してない段階での体の変化としては・・・

【胸のかゆみ】

ふっと意識が開放された時に、乳輪にかゆみを覚える瞬間があった。

ただそれは、汗かきだから、というつもりで流していた。

【胸の形の変化】

お風呂から上がった時に、自分のかがんでいる姿を鏡で見たら、

圧倒的に右と左の乳房の形が違っていた。

それから気をつけて見るようにしたら、左がひきつれている感じだった。

今思えば、乳房の中にある腫瘍が内側に引っ張っていたんだと思う。

ちょっとボコッと凹む感じ。

右と左の形が全然違うので「何これ? !」って思っていたのだけれど、

それもやり過ごしていた。


受診のきっかけ
かゆみもあったし、何か体の中で起きてるな〜というのが、体の中の自覚症状。

“この形の違いはよろしくないな、もしかしたら・・・” と思っていたけれども、

自分の中では認めたくなかった。

私が入院したり、手術しなくてはいけなくなると、子供達は?

誰が子供達の面倒見るの?

と思うと、自分で先延ばしに・・・

ある時、コーチに相談。

「こういうことがあるんだけど、乳癌かなぁ?」

「それね、結果がどうであれ、事実を確認してきたほうがいいんじゃない」

―だよね、早く対処するに越したことない!

そうやって、コーチの一言で背中を押された。

誰にも話せる話ではないし、守秘義務がある絶対的に守られてる場だから安心して話をした。

その結果、背中を押してくれて、こわいけれども行ってみよう、と。

半分くらい覚悟しながら・・・


【補足】 コーチはみんな、自身でもコーチをつけるんだそうです。

nicochanさんもベテランコーチですが、2週間に1回くらいの頻度で

コーチングを受けているんだとか。   (by 管理人)


病院歴、転院歴
2011年9月14日 街のレディースクリニックを受診
2011年 10月 紹介された大きな病院を受診 
2011年 11月 山形先生にセカンドオピニオンを受ける
2011年12月19日 入院 
2011年12月20日 手術(7.5h) 
2011年12月25日 退院 
2012年 1月下旬 抗がん剤治療(1回目)、初回のみ入院(1泊) 
2012年 5月上旬 抗がん剤治療(5回目)終了
2012年 5月〜 ホルモン治療開始 


「なんでもっと早く来なかったの?」
2011年9月14日、誕生日の4日前―

何度か行ったことのある、街のレディースクリニックへ。

女医さんがエコーで診てくれて、

「7割方乳癌だと思います。大きな病院に行って調べてみないと確実な事は言えない。

 ここにはこれ以上調べる物がないから」
 って言われて、

―あぁ、やっぱりな、と・・・

「なんでもっと早く来なかったの?」

と言われた時、「乳癌です」って聞くよりショックだった。

自分の努力、注意で、管理できたはずなのに、

“もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら・・・” って言いながら、1年くらいひっぱった。

「お子さんいくつ?」

って聞かれて、

「それなら、まだまだがんばんなきゃ!」

って言われた時、その言葉の裏返しは、

“がんばらないとダメな状況なのかな” と感じて、すごく後悔した。

“もっと早く行っとけばよかったなぁ” って。

ただ、わかった時が一番早い時なのだから、それはもう仕方ない!

そして、次の悩みは、

“子供にどうやって伝えよう・・・” ということ。

「遅い」と言われながらも、ここからやることがあるなら、やらなきゃ!子供達のためにも!!

その時、“死ぬかもしれない” という不安はあまりなかった。

“子供達にどう言えばいいんだろう” というのが一番の悩み。

頭の中をぐるぐるしながら家に帰った。


この病院?この治療法?
その2週間後、紹介された大きな病院へ。

もう一度、血液検査、エコー、細胞診、CT、PETと一通り検査して、乳癌と確定。

治療法の提案はいくつかあったが、

若くて優秀と言われる外科の先生が、とても手術をしたがったように感じた。

と同時に、本当にこの病院?この治療法・・・?

“この人に任せていいんだろうか?” と考えるように。

そんな時、病院のシステムの入れ替えがあり、

パニクッて患者の目の前で看護士を怒鳴っている先生の姿を見た時に、

“この人じゃない” と思った。それで、

「セカンドオピニオンを取りに行きたい」

と先生に相談したら、

「いいですよ、どうせ帰ってくるから。

 そういうふうにセカンド取る方も多いけど、ここに戻ってくる人も多いから。」


という返事だったので、

「じゃあ、もし私が帰ってきたとしたら、手術してくれますか?」

と聞いたら、

「もちろん」

ということだったので、さっそく紹介状を書いてもらって、

そこからデータをもらうまで、2週間くらいかかったかな。


セカンドオピニオンの予約
データが手に入った時に、日大病院にすぐに電話した。

「山形先生のところにセカンドオピニオンを取りにいきたいんですけど」

「ということは乳癌ですか?」

「そうです。乳癌の診断をくだされてるんですけど」

「あぁ、わかりました。そういうことなら少々お待ちください」

総合受付から秘書さんへ電話をまわしてくれた。

「たった今データをもらえたので、すぐにでもセカンドオピニオンを聞きに伺いたいんですが」

「2ヶ月先になっちゃうんですけれども」

―2ヶ月かぁ・・・でもしょうがないかな。

「あ、ちょっと待ってください。明日来ます、明日来ます」

「えっ?明日ですか?」

「今日の明日で大丈夫ですか?」

「何を置いてでも行きます!」

それで行くことができた。



【補足】 文中の 「山形先生」 は、鈴木杏樹さんの旦那さんだそうです。   (by 管理人)


「で、どうしたいの?」
山形先生もお忙しい方で、なかなか病院にいらっしゃらないんだけれど、

ほんとにたまたまその日にいらして、診てくださった。その時に言われたのが、

「で、どうしたいの?」 

それを聞いて、“この人だ!この人がいい!” って直感的に思った。

“これは私の意志を尊重してくれるんだ” って。

年齢も、私のちょっと上くらいなんだけれど、非常に懐の大きさを感じるような

そんな感じ。軽くて、チャラい感じなんだけどね。

だけど、そういうふうに聞いてくれて、

「実は私はこういうふうに言われてるんだけれども、

 おっぱいを残したいんです。でも、癌は取りたいんです。」

「あぁ、そうだよな。」

こういう口の聞き方。「そうですよね」じゃない。

「だよな。」「やれよ。」みたいな感じ。

でも、それが居心地良くて、いろいろ聞いてくれて、

「いろんなやり方があると思うけれども、あけてみないとわからないこともある。

 内視鏡でいけるんだったら、それでいくことは可能だから。

 この手術ができるのは、日本でも数人しかいないし」
と。

「俺が一番だ」とは決して言わず、

他にも、先生はいろんな治療法の提案をしてくださって、

そこが、すごくオープンだなぁって思った。

「で、どうするか自分で考えな」

って言われて。

“自分の意思で決めさせるお医者さんていいなぁ” と思って、

こっちもちゃんと責任を持って、自分の体と向き合うし、

先生も「決めた以上はちゃんとやるよ」って感じ。


乳癌コーディネーターの秘書さん
その日に、山形先生にお願いするって決めて、手術が12月20日に決定。

「女性にしかわからないこともあるだろうから、

 何かあったら、秘書に聞いてみなよ。

 彼女、乳癌コーディネーターを持ってるから、いろいろわかるかもよ。」


―あぁそうなんだー。すごく心強いなぁ。

と思って、さっそく秘書さんに、

「今後、私、どうしたらいいんでしょう。流れ、段取りとしては。」

と聞いたら、

「今日まず、山形先生にひょっこり、昨日の今日で会えることはまずないから、

 こういう人は絶対大丈夫!私も乳癌で、先生に手術をしていただきました」
と。

彼女も手術をして、むくみとかも一切ないし。

成功のロールモデルがそこにいた!

それがすっごく心強くて、

そこから、“乳癌コーディネーターになろう” とも思った。

そういう存在があること自体初めて知ったし、

こういう存在がいるからすごく安心できるんだ、

その時点では、本当に彼女に救われた。

“同じ手術経験がある人というのは、こんなにも心強いのか” と。


子供に伝える
山形先生にお願いしようと決めてから、子供に話をした。

全部段取り済ませてからじゃないと、子供達が不安がるかなぁ・・・って思ったので。

「ちょっといい?私、乳癌になっちゃったみたいなのね」

「え?」

「こういう先生に自ら会ってきて決めたので、大丈夫。

 先生も決めたし、私も今、不安はないから、大丈夫だから。

 申し訳ないけど、家だけ守って」 って。

子供達2人とも泣かないでちゃんと聞いてくれて、

「大丈夫、家のことはなんとかなるよ」 って。

「ありがとね、よろしくね」

―言えてほっとした。

わからないようにやるのもしんどかったから。

病院に行ったり、治療法の本なんかも、わからないようにと・・・

それまで、何人かの友達には言ってあった。

「子供のことを頼む。連絡あったら、来てもらってもいい?」

そういった段取り、仕事仲間にも何人か知らせていたけど、

子供はできるだけ知らないほうがいいかなと思って、

2ヶ月くらいは、胸のうちにしまっていたかな。


手術
12/19に入院して、体重、血液検査、尿検査があった。

12/20に手術して、12/25に退院したのだけれど、

手術直後は、全身麻酔で一日中寝てる状態で、

麻酔が切れた直後は、すごく辛くて、苦しかった。

“2度とこんな想いはイヤだ” って思った。

夜中に “早く朝になって、早く朝になって” とずっと思っていた。

倦怠感ていうのかな。痛みはなかったけど、気持ち悪かった。

麻酔って、覚めるときが苦しい(?)のかも。

それで、朝を迎えて、

リンパを切ってるから腕が上がらない。

「起きてパジャマに着替えましょう」 と言っても、

自分一人では何もできなくて、ふがいないなぁって思った。

「病院内ぐるっとしましょうか」 と言われても、

まず腰がまっすぐできなくて、おばあさんみたい。

看護婦さんが手を取ってくれて、少しずつ少しずつ。

クロマニョン人が人間になるみたいな、進化をたどった感じ。

でも、そこからの回復は早かった。


入院生活
退院までの5日間は、天国のようだった。

快適で、快適で。

寝て、薬飲んで、寝て、食べて、本読んで、テレビ見て・・・

それだけでいい。それが仕事。

家事もしなくていい、仕事もしなくていい、何かを不安に思わなくてもいい、

“人って、こんなに毎日楽なの?” って思った。

それまで10年近く、ずっと世の中と戦い続けてきた。

子供を守らなきゃ。矢が飛んできたらどうしよう。こういうふうに交わそう。

ずっと神経が休まってなかったと思う。

無意識の中で、 “何も考えずに眠りたい” というのがどこかにあった。

睡眠時間が4時間ていうのも、寝かさなかったのかも。

寝ちゃうとこわい。

寝てゆるむことで、常に危機感を感じていたのかも。

気づかなかったけれども、すごく自分を安らかにしてあげたかった。

そのくらい自分を大事にしたい時間だった。

ものすごく快適にすごしたので、それで治りが早かったんだと思う。

食べるのもおいしかったし、おかわりしちゃいたいくらい。快適だった。

ただ、“あそこの時間が悪くないなぁ” と思うとそういう現象が起きるから、

ああいう楽な感じを、病院ではなく他で持てればいい、と考えるようにしている。


真冬のシャワー
退院して、1月に検診があったのだけれど、

その間もお風呂には入れないのが辛かった。

真冬にシャワーだけっていうのが寒くてね。

患部は覆われてるから、シャワーも大変。

腕が上がらないから、お料理もできない。

フライパンひっくり返すのがこんなにも力がいるものかと、その時初めて知った。

右手だとこんなにできないの?とか。

当たり前にやってることができない。

できないことがいっぱいあった。


抗がん剤治療の決断
年明けに病院へ行って、山形先生に診てもらって、

抗がん剤治療についての説明があった。

「癌細胞を調べたところ、ホルモンの働きかけに対しての反応がいい、

 顔つきのいい癌だから、抗がん剤治療を勧める。

 抗がん剤治療を始めると、1ヶ月後髪が抜け始める、

 気持ち悪くなる、吐いてしまう、倦怠感・・・(省略)・・・」


―できればやりたくない、と思った。

「結論は、いつ出したらいいですか?」

「よく考えてからでいいよ。今すぐ結論出せないよな。」

「・・・」

「悩むのもわかる、ただ、一つの意見として聞いといてほしいけれども、

 もし、自分の親戚にあなたと同じ症状の人がいたら、俺は勧める。

 今のままだと、5年生きる生存率は50%、

 抗がん剤治療をすれば75%、

 もし俺の親戚にいるとしたら、長生きしてほしいから、勧める」


その時に “やろう” って思った。

「ほぼほぼお願いすると思うけれど、いったん持ち帰らせてください」

それから2週間後、1月末に先生のところに行って、

「やっぱりやります」

と伝えた。


抗がん剤治療
山形先生が具合が悪くなって、主治医が女医さんに変わった。

抗癌剤治療は、1月末〜5月頭。3週間刻みの計5回。

抗癌剤治療をしながら、仕事も復帰しなくちゃいけないと思っていたので、

「ずっと気持ち悪いんですか?」 と聞いたら、

「人によるけれども、抗癌剤を打ったその日はつらい、

 それから1週間くらいつらい人もいれば、ずっとの人もいるし、ケロッとしてる人もいる」


私は、1回目、どういう症状がでるかわからなかったから、1日だけ入院。

気持ち悪いけど、思ったほどではない。もどしたりもなかった。

だるい感じにはなったけど、まぁこんなもんか、と。

抗癌剤治療のたびに入院にする人もいたんだけれども、私は通院にした。


副作用 “脱毛”
抗癌剤治療で更年期障害の体を作るから、そんなのもあいまって、

そこから生理がピタッと止まった。

それよりもなによりも、乳房をなくしてしまった喪失感と、

2ヵ月後にくるからね、って言われていた脱毛。

髪が長かったので、山形先生が

「短くしとけよ」 って。

「長い髪の毛がお風呂場に流れていくのは、女性として厳しいみたいだから、

短くしておいたほうがましかもよ。」
って。

何十年ぶりにショートにして、

ショートも悪くなかったけど、

案の定、2ヶ月目に、髪を洗っていたらゴソっと抜け始めて。

「これかぁ」 と。

洗う度に、ゴソゴソゴソゴソ抜け始めて、

「もう何かやだ」 って思っちゃって、

抜け始めると、子供にも見せられないから、

家の中ではずっとニット帽をかぶって、冬だったから寒かったのもあって、

人って、髪がないの寒いのね、初めって知っちゃった。

すごい寒い。

布団はかぶれるけど、頭はかぶれない。髪の毛ってありがたいんだなぁ・・・

ニット帽をかぶって、それで寝るようにした。

家の中でもニット帽をかぶって、子供達にもその姿は見せられなかった。

中途半端にぱらぱらぱらぱら髪が落ちて、拾うのもたいへんになってきた。

いっそのこと、友達が丸刈りにしてくれて、

すごい勇気いったけど、“いさぎいいか、このほうが” と。

そこからウィッグ生活。

ウィッグをつけて、仕事にも復帰。

3週間に1回の抗癌剤治療をしながら、

打った直後、3日間くらいは食事も作れたり、作れなかったり、

食べるのも食べれなかったり、

ちょうどいいスケジューリングで仕事が入るように操作して、

おかげさまで、お客様の前で気分が悪くなるようなことはなく、

ウィッグであることも気づかれずに済んだ。

その時も山形先生が、

「ウィッグもいろいろあるから、遊んじゃえよ、金髪とかもあるから、たまにはいいぜ」 って。

そういうところがすごく救われた。深刻ぶらずに、

「抜けちゃったらしょうがないじゃん、楽しもうぜ」 って。

いろんなことを言ってくれた。


その他の副作用、後遺症
【手術の影響】

「重い荷物は持つな。血流が悪くなるから、むくみやすくなる。」

って言われて、右ばかり使っていたら、右が五十肩になった。

左があがらないから、右を使わざるをえなくて。

両方ともあがらないから、仕事のジャケットが着れなくて、着せてもらったり。

板書ができないから、「ちょっと五十肩で」って言って、アシスタントに書いてもらったり。

そんなことがついてきた感じ、ちょうどいろんな事が重なっちゃった。

そういう負担感はものすごくあった。

“身動きがとれないってキツイなぁ” って。

【抗がん剤の影響】

抗癌剤治療の時、打った直後はものすごいだるさと、むかむか感もあって、

吐くまでは至らなかったけれど、

抵抗力が落ちるから、口内炎ができちゃってそれがイヤだった。

毛という毛が抜けたことで、まゆげもまつげも薄くなるので、お化粧を工夫しないといけないし。

食べ物も制限された。

抵抗力が落ちてるから、菌にやられちゃうらしく、

「生ものは一切禁止!」

お刺身は食べれないし。

白血球を落としちゃいけないから、お日様にあたる、楽しく過ごす、とか

すごく気をつかっていた。

【ホルモン治療の影響】

ホルモン剤は、関節が硬く、痛くなる。

同じ姿勢をしていて急に立てない。

すこしずつ伸ばさないと、固まっちゃう。

スクワランがなくなっちゃうのかな、関節がグキグキ。

2階で寝てるんだけど、朝は階段も1歩ずつ下りて、

少しずつ体があったまってくるから、日中は大丈夫だけど、

寝てるときは体も固まっちゃうのかな。


治療後のライフスタイル
ライフスタイルはあまり変わってないです。

治療直後は、精神的ストレスをためないとか、睡眠時間とか、気をつけていたけど、

ここのところ戻ってる。 “元気になった” って思って慢心してるかな。

ただ、意識が変わった。

ここ1年くらい整体に通っていて、月に1回、自分と向き合う時間を作ってる。

やりたくないことはやらない、会いたくない人とは会わない。

「これをしていて本当に楽しい?喜ばせられてる、私を?」 って。

時々振り返る基準ができた。

『自分喜ばせプロジェクト』 と呼んでいるんだけど、

“これをやること” より “これをやっている自分” を振り返るようにして、

“これができてすごい!” ということより

“これをやっている私、楽しい?喜んでる?嬉しそう?” という意識を持ち始めた。

より感じる力を強化する、より直感に基づいた生活の仕方。

“なんか嫌” って思ったら、それに忠実に。

“なんかいい” って思ったら、“なんかいいでいいからやってみようかなぁ” って。

目に見えない部分でわかりづらいけれど、そういうところが変わった。

言葉の選び方、仕事の選び方、も変わった。

より “自分の内側から出てくるものを大事にしよう” とか、

一つのコンテンツを作ることもそうだし、セッションをやっていても聴くところが変わってきた。

相手の言葉、想い、も聴くようにしていたけれど、

今は逆に、感じとれるようになった。

言葉にならない言葉、「こうじゃない?本当はこうじゃない?」 っていうこと。

それはその人が言う言葉じゃなく、発しているエネルギー感とか、そこでのたたずまい感。

「本当にそれでいい?」 「理由はないんだけど、どお?」 みたいな。

そこが研ぎ澄まされた感じがする。


レイキヒーリング
余談ですが・・・

ちゃんとした治療を受ける前にヒーリングを受けるようになった。

“レイキヒーリング” ってつまり “お手当て” なんだけれども、

その時間は、ものすごく幸せに包まれる。

浮遊感というか、私が私を大事にする時間。

治療前はそれにお金と時間をかけた。

それによって回復が早かったんだと思う。

それで “レイキヒーラーになろうかなぁ” って。

自分が自分にしてあげられるでしょ。

まずは自分にね。


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nicochanさんは、女性支援の活動をされています。

「私は、やっぱり、自分の足で歩いていこう」と決めた人を支援したい!

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